Q.歯科医師を目指したきっかけはなんですか?
実は小さい頃、アレルギー体質で鼻炎や喘息がひどく、学校を休んで病院に行くことが度々ありました。中学生の時、体重は30kgもなく、身体もとても小さかった。その頃もしょっちゅう学校を休んでいたんですね。病院へ行くと、お医者さんが喘息で苦しみながら話す私の声にならない声に「うんうん」とじっくり耳を傾けてくれて、吸入や注射で助けてくれたんです。そのときの白衣の姿がもう神様に見えてましてね。まずここで、白衣を着て誰かのために役立てる人になりたいと思うようになりました。
そして中学の頃、社会の授業で組織の歯車になって人間らしさを失うような状態になる「人間疎外」について学んだことと、とある無声映画で1日中工場で単純作業を繰り返す映像を見て、「歯車になりたくない」と思ったんです。小さな頃の記憶も相まって、その時に思った将来の職業像は医師か弁護士でした。でも理系思考だったこともあり、医師か歯科医師のどちらかだろう思い直しましたが、結果的に手先が器用だったことから歯科医師を目指すようになったんです。
Q.昔から手先が器用だったんですね、何かそれに関するエピソードはありますか?
2つエピソードがあります。ひとつ目は、子供の頃に1cm四方の薄い紙で折り鶴を折って、父に「お前は器用だな」と言われたこと。
ふたつ目は、小学校1年の時までさかのぼります。ある日、理科で植物の種子に関する授業があったのですが、桃の種や柿の種はすぐに数えられるけれども、すすきの種子はあのフサフサに見える毛のようなものが全て種子であるため数えるのは容易ではない、という内容だったんですね。そんなわけで、とある生徒が教師に向かって「すすきの種はいっぱいありすぎて数えられないよ」と発言すると、それを聞いた私が「数えればわかるじゃないか」と言い返したんです。そして後日、本当に数えて皆の前で報告しました。ちなみに種の数は今でも覚えていまして、4386個でした。教師にも生徒にも驚かれましたね。「本当に数えてきたんだ」と。
この2つのエピソードが、私の手先の器用さと根気強さを表すできごとではないかな、と思います。
Q.昨年この場所に医院が移転されたとのことですが、その経緯を教えてください。
移転した理由は2つ。まずひとつ目は、恩師からのアドバイスです。「自分が得意で、自分がコントロールできる領域の中にいたら人間の器が大きくならないよ」と言われたんですね。以前は規模も大きくないため、目が行き届くし、コントロールができるし、借金もない。しかし、もっと多くの人々に治療サービスを届ける、設備をもっと充実させる、そうするためには以前の場所では不十分。そう思ったことが移転を考えたひとつ目のきっかけとなります。
2つ目は、向上心旺盛な歯科医師の仲間たちと共に勉強できる研修室のような部屋を設けたかったことですね。私の歯科医師としての目標に、アメリカに留学していた時に歯科医師としての生き様を教えてくれた、とある先生の哲学を若手の歯科医師に伝える、というものがあります。年に1~2回程度講演しているのですが、私が伝えた内容に感銘を受けたと言ってくれる歯科医師が度々見学のために来院されます。また、近隣の歯科医師も夜間に開催する勉強会に参加されます。その数なんと10人以上。移転しなければ、このような変化に対応はできなかったと思います。
Q.たくさんのこだわりが詰まった医院なんですね、特にこだわっているところはなんですか?
マイクロスコープやセラミック治療システム、CTなど、昨今主流の機材は一通りそろっています。しかし当院が特にこだわっているのは、消毒室です。消毒室は、忙しくなると散らかりがちな場所。消毒・滅菌は、歯科治療において不可欠なはずなのですが、時に多忙さにかまけて雑多になってしまう。実は以前の場所では、気をつけていたとはいえ、お恥ずかしながらとても人様に誇れるような状態ではなかったのです。
学会に参加してようが、新しい設備を持っていようが、消毒室が整理されてなければ、とても良い歯科医院とはいえないでしょう。そこで当院は誰にいつ見られても、しっかり消毒・滅菌していることを表すために、消毒室をガラス張りにしています。また消毒室内は、ヨーロッパ基準の滅菌仕様に準じた設計・レイアウトとし、どのような温度で、気圧で滅菌器を動かしたのか、そのデータも欠かさず保管するようにしています。患者様に求められればいつでもお見せできるほどの徹底ぶりです。ここまでやってはじめて、こだわっている、と胸を張って言えるのだと思っています。
Q.トライアスロンがご趣味とのことですが...
トライアスロンを始めたのは、2009年からです。きっかけは、少し長くなりますが少々お付き合いいただくと。
ある日家族とスキーに行ったのですが、その時に崖から落ちて大怪我をしたんです。8時間におよぶ大手術を受け、なんとか一命をとりとめましたが、その後1年半におよぶリハビリを受けることになりました。当時私には1歳の息子がおり、この子とキャッチボールをしたり、自転車で一緒に出かけたりすることができなくなる、そう思うと自分が情けなくて。そんな自分が悔しくて、体調が戻ったらフルマラソンを完走してやる、と思ったんです。
その後、ハーフマラソン、フルマラソン、100キロマラソンを次々に完走。そして今ではトライアスロンにチャレンジするようになったんです。中学生の頃、30kgも体重がなかった私が今ではトライアスロンで、身体をバンバン痛めつけている。当時の同級生は、そんな私の姿を見てきっと驚くのではないでしょうか。
Q.そんなドラマがあったんですね!競技を始められてからの事を教えてください。
トライアスロンで出会った仲間たちに感銘を受けました。特にコーチですね。レースが終わると、表彰式を経て、打ち上げで盛り上がり、その後もはしご酒を楽しみ、次の日には帰る、というのが一般的な流れだといえるでしょう。しかしそのコーチは、ゴミ袋持ってゴミを拾いながらもう一度同じコースを走るんです。翌日は仕事もあるでしょう。でもゴミ拾いのために1日延泊して帰宅の途につく。この誰もやらないようなことを毎回行う、この姿勢にとても感銘を受けています。
また、トライアスロンには義足の方も参加されています。もう歩いてしまいたい、そんな悪魔の囁きと戦う最中に、義足のランナーの方が弱音をひとつも吐かずに沿道の声援に笑顔で応えている。「ありがとう!がんばるよ!」と。そんな姿を見ると、足が痛い、走れない、なんてことは言えません。私もどんなにきつくても笑顔で、人々に勇気を与えられる、そんな人になりたいと思っています。